お茶する
「お茶する」というフレーズを、日本人は何気なく使います。
「お茶」は普通、名詞だと思われていますが、暮らしの中では動詞として使われることが多くあります。今回は、この独特な暮らし方を探求します。
目覚まし時計で起きて、簡単な朝食を済ませてから、電車でオフィスまで。
途中、コーヒーをテイクアウトしながら、始業時間に間に合うよう早歩き。
もう何十年も見慣れた朝の通勤風景に混ざっていると、この街の「流れ」を感じます。点と点のあいだに引かれた直線を走る、電流のような流れです。
実際、電車は電気で動きますし、バスや自転車も電動になりつつあります。人間も、神経の信号は電気だ。
この現代都市の風景、どのように成り立っているのかを想像し始めると思い出すのが、人類学者の梅棹忠夫が『情報の文明学』で示した比喩です。産業の発展を発生学になぞらえて、農業の時代を内胚葉の時代、工業の時代を中胚葉の時代、そして情報産業の時代を外胚葉の時代と呼びました。
外胚葉とは、例えば脳。そして皮膚です。神経の働きを担う部位の多くが、ここから生まれます。
情報技術が高度化し、AIがあらゆる産業の主役になろうとしている今は、外胚葉の時代の頂点か、それを少し越えたあたりでしょう。
そして人間の神経の働きは、もう身体の中にとどまっていません。コップも椅子も、パソコンも乗り物も、人間の内側が外に出た姿だと思います。生物学者のドーキンスが遺伝子について述べた「延長された表現型」という言葉は、道具や乗り物といった「文明の利器」にまで及ぶと私は考えます。
すると自然と、現代都市の構造は外胚葉の型に見えてきます。基盤のエネルギーは電気で、その流れは点と点を最短で結ぶ直線になる、と想像するわけです。
ただ、この試論に抜けているものがあります。人間の内胚葉と中胚葉、いわば身体性であり、個々人の「奥行き」とみなせるものです。
脳は、血液脳関門という厳格な関所で血液中の物質から守られていて、これまで身体の中でも「特別」とみなされがちでした。ところが腸脳相関の研究が示したのは、身体と脳が絶えず影響を与え合っていることでした。
肉体を通じた世界の体験が精神に送り返され、精神は経験の宇宙を迷走したのちに、判断を下します。
この往復にかかる遅れは、「ボトルネック」ではなく、神聖な「待機時間」です。速いものと遅いものは、いつも隣り合っています。
「お茶しよう」と言うとき、それが「何のお茶を飲みに行くか」の話であれば、ゆったり快適なお茶時間にならないかもしれません。動詞の「お茶」は、飲みものの名前ではなく、時間の名前です。
点から点へ、最短で。そればかりを考えていると、肉体と精神は乖離してしまうでしょう。
加速度的に直線化していく都市の流れを目の当たりにすると、「待つ」ことの意義がありありと見えてきます。人類学者のインゴルドが言う徒歩旅行のように、線そのものを歩く時間が、まだ私たちには残されています。